東海大一、86年度初出場で全国高校サッカーV―サントス弾で国見破った舞台裏
東海大静岡翔洋の前身、東海大一は、86年度の全国サッカー選手権で沢登正朗(元清水)らを擁し、初出場初優勝を飾った。当時のメンバーで、現J1清水の内藤直樹スカウト部長(51)に思い出を語ってもらった。(武藤 瑞基)
今はなき旧国立競技場が揺れていた。86年総体王者・国見との決勝。前半32分、東海大一はFKを獲得する。位置はやや左、距離約22メートル。FWサントスの左足から放たれた弾丸は7枚の壁を越えてゴール前で急カーブし、GKの両手もろとも左サイドネット内側に刺さった。DFだった内藤さんが、当時を振り返った。
「国見の選手は大学生みたいな体つきで、相手を蹴散らしていくパワフルさも桁外れ。正直前日は『勝てねえ、無理だ』って言い合っていた。でもサントスのFKで『意外といける』と希望の光が見えた」
5得点で大会得点王に輝いたブラジル人留学生の存在感は別格だった。前年春、チームに合流すると“カルチャーショック”をもたらしたという。
「毎日1対1をやるんだけど、とにかく彼からボールが取れない。方向転換時の足首の強さ、深い切り返し、僕らが初めて体感するボールの持ち方をしていた。サッカーに対する意識、技術に衝撃を受けたし全体のスキルアップにつながった」
サントスの一撃で波に乗ったチームは後半33分にも主将のDF大嶽直人がCKから加点。2―0で国見を下し、初出場初優勝、全5試合完封の離れ業をやってのけた。鉄壁のディフェンスを生んだのは前例にとらわれない考え方だった。
「当時主流はマンツーマン。おそらくうちが初めてマークを受け渡すゾーンをやった。大嶽は身体能力が高く、読みも鋭い。お互いがカバーしあえた。基本は高い位置を取っていたサイドバックも守備の時は戻ってくるし、中盤の沢登もハードワークしてくれた」
決して守備的なチームではなかった。試合前のミーティングで望月保次監督は細かな事は言わず「〈1〉ラインを引き過ぎるな〈2〉前でチェック〈3〉思い切りの良いシュート」だけを強調した。
「自分たちの良さを出すには引いたらダメ。『僕らが掃除するから行け』って大嶽と2人で前線のケツをたたきましたよ」
初陣の2回戦・徳島商戦から準決勝・秋田商戦まですべて3―0の快勝。だが2回戦から決勝まで6日間で5試合の超過密日程に、悪戦苦闘していた。
「初戦が終わって緊張から解放されたのと、暖かい静岡から一気に雪も降る寒い所に行ったのとで5人くらい風邪を引いちゃった。点滴や座薬で何とか熱を下げて、試合をやってまた寝る、みたいな感じだった」
決してエリート軍団ではなかった。選手権は前年まで2年連続県準V。3年時の総体県予選は8強止まりで、指揮官から「最弱。お前ら引退しろ」と迫られた。
「1つ下に沢登とか平沢(政輝)とか優秀な選手たちが控えていたから…。ただ、俺らも『チクショー』っていうのがあって、そこから自主練の虫になった。ラグビー部の部室に潜り込んで夜中に筋トレしたり、プロテインがいいって聞けば買ってきて飲んだり。夜9時くらいまで電気も消さずに個別練習をした。個の力量は高くなかったけど、助け合い精神、結束力は高まった」
日本一を決めて帰静後は清水駅周辺をパレード。学校での報告会も行われた。
「すごい人だかり。一生の思い出になりましたね」
自身は19年末から清水スカウト部長に就任。新型コロナウイルスの影響で活動できない“後輩”たちに前を向くよう訴える。
「逆境をプラスに変える。例えば僕は中学生の時にテニスの軟球やピンポン球で練習した。それなら家でもできるし芯を捉える練習になる。個人スキルを伸ばしてコロナから何かプラスに転じてほしいですね」
◆第65回全国高校サッカー選手権・東海大一の成績(1987年1月1日~8日・国立競技場ほか)
▽2回戦
東海大一3―0徳島商(徳島)
▽3回戦
東海大一3―0大宮東(埼玉)
▽準々決勝
東海大一3―0高知(高知)
▽準決勝
東海大一3―0秋田商(秋田)
▽決勝
東海大一2―0国見(長崎)
◆内藤 直樹(ないとう・なおき)1968年5月30日、静岡市生まれ。51歳。東海大一高、中大を経て日立製作所入り。92年に清水入団。広島、神戸と渡り、98年に現役引退。J1通算143試合出場2得点。引退後は東海大翔洋高監督を経て清水スカウトに転身。19年12月からスカウト部長兼強化部長補佐を務める。180センチ、79キロ。