無名で来日→大ブレイクで欧州移籍・ブラジル代表へ “超人”元Jリーガーの日本愛「僕の心に住んでいる」

Jリーグ時代のフッキ【写真:Getty Images】
Jリーグ時代のフッキ【写真:Getty Images】

【あのブラジル人元Jリーガーは今?】フッキ(元川崎、札幌、東京V):前編――Jリーグから羽ばたいた欧州で成功

 ブラジル代表FWフッキは驚異的なパワーとスピードを兼ね備え、川崎フロンターレ、コンサドーレ札幌(現北海道コンサドーレ札幌)、東京ヴェルディとJリーグの3クラブで、合計3年半の間、ゴールを量産した。

 18歳と若く無名な時代に来日し、Jリーグでのプレーを経て、ヨーロッパ移籍とブラジル代表での成功を掴んだ男は37歳となった今も、ブラジルのビッグクラブであるアトレチコ・ミネイロで爆発的にゴールを決め続けている。2008年半ばに日本を離れてから今に続く、その道のりを訊いた。

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 ポルトガル1部ポルトに移籍して4試合目で初ゴールを決め、レギュラーに定着。そのフッキが、監督やチームメイト、サポーターに認められたと感じた瞬間があったと言う。

「僕はJリーグからポルトへ行った。アジアとヨーロッパではやっぱり違うから、すべてが難しかったけど、すごく歓迎してもらえたし、自由にプレーさせてくれた。だからこそ、早く適応できたんだ。心に刻まれるゴールがある。その年の11月、タッサ・ジ・ポルトガルのアウェーでのスポルティング戦。チームが前半に失点したあと、後半に僕が決めたんだ。あの時から、みんなが僕の特徴を理解し、信頼してくれるようになった気がする。そして、すべて上手くいくようになった。」

 2010-11シーズンには、ポルトガルリーグで23ゴールを決めて得点王になるとともに、アシストも16。初めて年間MVPにも選ばれた。

「チームが無敗で優勝したんだ。だから、MVPはチームみんなのもので、僕が代表して受け取ったのも同然だ。あの年はそのほかの国内大会やヨーロッパリーグ(EL)でも優勝できた。僕がゴールを決めることができるのは、そこで多くのアシストをしてもらっているから。だから、僕も走って、サポートして、アシストして……。いつでもそうやって頑張ってきたつもりだよ」

 現在のアトレチコ・ミネイロでも、昨季はブラジル全国選手権で34試合出場15得点11アシスト。ゴールと同じくらいアシストをする、彼の信念とプレースタイルは変わらない。

現在はアトレチコ・ミネイロでプレー【写真:(C) Pedro Souza/Atlético】
現在はアトレチコ・ミネイロでプレー【写真:(C) Pedro Souza/Atlético】

日本で学んだ「自分が望むことにもっと集中する」重要性

■ゼニト(ロシア)

 2012年9月のゼニトへの移籍当初は、そのシーズンの市場で最高額の移籍金(6000万ユーロ/約100億円)だったことが話題となった。

「ポルトではあらゆるタイトルを獲得して、僕があそこで続けることを望んでくれる人たちの声を聞いた。でも、新たな冒険もしたかったんだ。ただ、ゼニトで出くわした最大の困難は、ロッカールームにあった。あれは最初で最後の経験だった。どこでも選手同士、尊重し合い、友情を築けていたから。ゼニトから僕への投資が高額だったから、僕がその価値に見合うプレーをしようとするのを、望んでいないチームメイトたちがいたのを感じたんだ。だから、最初の1年はつらかった。

 それから、何人かの選手が去ったのもあって、チームは家族のようになり、みんなで戦うんだという絆を感じられるようになった。そうなると、試合にも勝ち始め、その後は数々のタイトルを獲得した。困難を乗り越え、すべてが喜びに変わったあの経験で、僕も人間的に成長できた」

■上海上海(中国)

 2016年6月には、中国スーパーリーグの上海上港に活躍の舞台を移した。

「決断するのには時間がかかったよね。ただ、中国からはそれ以前にもオファーを受けたことがあって、機が熟したと思えたんだ。当時、中国サッカーは急ピッチで成長し、毎年何人かのビッグネームと契約していたしね」

 行ってみると、成長過程にあった当時の中国サッカーに身を置くのも、興味深い経験だったと言う。

「中国サッカーはまだ吸収する時期だったから、チームごと、監督ごとに、違ったサッカーを学んでいた。僕がいた上海上港では、アンドレ(・ビラス・ボアス)が、彼の哲学を植え付けようとしていた。驚いたのは、中国人選手たちがそれを急ピッチで会得し、すぐに試合で実践できたことだ。日々成長していくのを見た。僕もアンドレのサッカーをポルト時代から知っていたから、多少なりとも手助けできたと思う」

■アトレチコ・ミネイロ(ブラジル)

 そして、2021年には母国ブラジルのアトレチコ・ミネイロに移籍し、現在もトップレベルで活躍し続けている。移籍当初、中国から帰国したことによるブラジルメディアやサポーターの先入観を、彼は自らのプレーによって覆した。

「僕は若くしてブラジルを出て、日本で多くを学んだ。自分が望むことに、もっと集中するようになったんだ。そのプロ意識を持ってポルトガルに行き、ロシア、中国に行き、ブラジルに戻ってきた。いつでも勝ちたい、もっと良くなりたいと、自分自身に要求している。僕はスピードやパワー、瞬発力で競い、アグレッシブに勝負するのが好きなんだ。もちろん、今は20代のようではないけど、最大限のプレーができるように頑張っているよ」

 今季もシーズン最初の大会であるミナスジェライス州選手権で10試合に出場して7ゴール。得点王としてチームの優勝に貢献した。そして現在も、ブラジル全国選手権、コパ・ド・ブラジル、リベルタドーレス杯などで活躍中だ。

フッキはブラジル代表でもプレー【写真:Getty Images】
フッキはブラジル代表でもプレー【写真:Getty Images】

選手人生の原点となった日本は「素晴らしかった」

■ブラジル代表

 ブラジル代表にはポルトにいた2009年、ドゥンガ監督時代に初招集された。外国で経歴を築いただけに、当初はブラジル国民が、フッキとは誰かを改めて認識した。次のマノ・メネーゼスの時代に主力の1人となり、その後、ルイス・フェリペ・スコラーリには「戦術上、いかようにも起用できる選手」と称賛された。

 途中、しばらく遠ざかった時期もありながら、チッチ監督を含め、2021年までの歴代指揮官に招集され、約12年間を代表で過ごした。

「代表での思い出を挙げるなら、1つは2013年コンフェデレーションズカップ優勝。FIFA(国際サッカー連盟)の大会では、ブラジル国歌は長いから、演奏が途中で終わるんだ。でも、自国開催の大会で、スタジアム中のサポーターがアカペラで最後まで歌い切ってくれた時は、鳥肌が立った。僕らも一緒に歌って『ブラジルのために全力で戦おう!』と言いながらピッチに入ったんだ。そして、ワールドカップ(W杯)に出られたことを、心から誇りに思う。2014年ブラジル大会で、残念ながら優勝できず、W杯の厳しさも知った。本当に勝ちたかったけどね。サポーターと一緒に祝いたかった」

 インタビューではこの後、フッキの選手人生の原点となった、日本での思い出について聞いた。その前に、彼からのメッセージを紹介したい。

「日本のみんなに親愛を込めて。僕は自分がプレーした3つのクラブを、Jリーグを、日本代表を応援している。そして、日本の人たちに、日本という国に、いつでも幸運を祈っている。僕がプレーしたすべての国に、表玄関から入り、表玄関から去ることができたことを幸せに思う。それは、出発点となった日本での3年半での経験が、それほど素晴らしかったからなんだ。選手としても、人としても、すべてにおいて成長できた。だから、ここブラジルにいても、日本は僕の心に住んでいる。ドウモアリガトウゴザイマシタ!」

[プロフィール]
フッキ/1986年7月25日生まれ、ブラジル出身。ヴィトーリア(ブラジル)―川崎―札幌―東京V―川崎―東京V―ポルト(ポルトガル)―ゼニト(ロシア)―上海海港(中国)―アトレチコ・ミネイロ(ブラジル)。J1リーグ通算22試合8得点、J2リーグ通算80試合62得点。無名だった18歳の時に来日し、川崎から期限付き移籍した札幌でブレイク。2007年には東京VでJ2リーグ37ゴールを叩き出して得点王を獲得するとともに、チームのJ1昇格の立役者となった。超人的なフィジカルと左足から放つ弾丸のような強烈シュートを武器に、その後は海外リーグで活躍。09年にブラジル代表に選出。14年のブラジルW杯にも出場した。Jリーグで育ったブラジル人選手の中で、その後に最も有名になった1人だ。

(藤原清美 / Kiyomi Fujiwara)



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藤原清美

ふじわら・きよみ/2001年にリオデジャネイロへ拠点を移し、スポーツやドキュメンタリー、紀行などの分野で取材活動。特に、サッカーではブラジル代表チームや選手の取材で世界中を飛び回り、日本とブラジル両国のテレビ・執筆などで活躍している。ワールドカップ6大会取材。著書に『セレソン 人生の勝者たち 「最強集団」から学ぶ15の言葉』(ソル・メディア)『感動!ブラジルサッカー』(講談社現代新書)。YouTubeチャンネル『Planeta Kiyomi』も運営中。

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