【こちら日高支局です・古谷剛彦】私の人生を変えてくれた岡田繁幸さんとの思い出

スポーツ報知
鋭い「相馬眼」で知られた岡田繁幸さん

 岡田繁幸さんが天国へ旅立って1週間あまりが過ぎた。2001年、存廃論議が起きていたホッカイドウ競馬でファンサービスの一つとして2歳戦のパドック解説を始める動きがあった。その中で、岡田さんらとともに、無名の私が担当することに。この出会いが、自分にとって大きな転機となった。札幌から旭川に舞台を移すと、日高から旭川への距離を考えると、牧場の方々は通う訳にはいかない。岡田さんが「解説は、もう古谷くんでいいんじゃないか?」と後押ししてくれたことが、『北海道イコール古谷』が根付いたとスタートと言っても過言ではない。

 日高で仕事をされている方から「(岡田)繁幸社長とのメールのやりとりを読み返している。あの方の『ありがとう』は、常に気持ちが伝わるもの。ホースマンとしてはもちろん、人としても超一流です。本当にショックです」と、LINEが届いた。「いやー、ご苦労さん! いつもありがとう!」。岡田さんとお会いすると、必ずと言っていいほど温かい言葉をかけられた。相手が誰であっても温かく迎え入れ、感謝の気持ちを忘れない人だった。

 「古谷さんが連れて行ってくれた、あの旭川の(2002年の)グランシャリオカップが、ついこの間のようです。マイネルディバインが勝って、繁幸社長と出会えたことで、古谷さんと同じく人生が大きく変わりました」と、現在は美浦で厩務員となった、ビッグレッドファーム出身のTさんからメッセージを頂いた。彼はある専門紙の大井担当記者だったが、馬術部出身で、将来を見据えて牧場への転職を考えた。ただ、大井の調教師から紹介された牧場に断られ、途方に暮れていた時、「旭川に繁幸社長が来られるから、とりあえず話してみようよ」と、旭川競馬場に向かった。ナイター競馬で、レースが終わった直後に祝勝会となったが、その場で「うちに来なさい」という流れとなり、翌日にビッグレッドファームに向かった。

 「あのー、岡田からすぐにでも、という感じでうかがったんですが…」と、蛯名聡マネジャーがTさんに質問すると、「いや…。まだ、会社に退職願を出していないので、今すぐは…」と、あまりの急展開に戸惑っていたが、「そのあたりは岡田にちゃんと報告しておきますから、大丈夫ですよ」と、蛯名さんは笑顔で対応した。この頃、Tさんが紹介した新入社員が、今や明和の場長として頑張っている。時の流れは早い。その後も、Tさんのことを気遣い、「一緒に口取りをしよう!」と、常に手紙で伝えていたそうだ。

 岡田さんの代名詞とも言える「相馬眼」。市場で比較展示の時、岡田さんが「ちょっと引っ張ってみて」とひき手に声をかけると、周囲に緊張感が走った。「岡田さんに声をかけられることが、何よりうれしい」と、生産者の多くは話す。2013年に札幌競馬場で行われたトレーニングセール。2ハロン21秒8をマークした後のモーリスに、誰もが熱い視線を注いだ。もちろん、岡田さんもその一人だった。「でも、ノーザンが行くって聞いたから、多分無理だと思うんで、別の馬に切り替えて、それは○○○万円まで行けって、若いのに行かせているとこだわ」と、話をしていた時、競りに向かわせていたスタッフがやってきた。

 「そろそろじゃないのか?」と岡田さんがいうと、「いや、一声で落とせましたよ」とスタッフ。「えっ! あの馬がか」と驚いていた岡田さん。700万円で落札したその馬はのちのプレイアンドリアル(父デュランダル)である。地方代表として、東京スポーツ杯2歳Sでイスラボニータに首差に迫り、翌14年の京成杯を制した愛馬は、クラシックへの期待を抱かせた。残念ながら右前繋靭帯炎を発症して引退を余儀なくされたが、ダービーへの出走を目指し「お前が諦めても、俺は諦めないって気持ちで、何とかしたい」と、それまで得たノウハウを試していた姿は、今でも忘れられない。

 出会ってからの約20年間、いろんな思い出がある。貴重な経験もさせていただいた。コスモバルク番として常に張り付き、ラフィアン会報誌で10年も連載させていただいた。札幌、函館のトークショーで司会を担当させていただいたこともある。何より、グリーンチャンネルで岡田さんの冠番組で1年間ご一緒させていただいたことは、大きな財産である。競馬に情熱を注ぎ、ファンを大切にした岡田さんの遺志を、ホースマンたちは受け継いでいくほかない。

 「心より感謝申し上げます。そして、ありがとうございました」

 その言葉を、来月5日のお別れ会で伝えようと思っている。

                      (競馬ライター)

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