【ヒルマニア】74年アーロンVS王のガチンコ本塁打競争 天然芝の後楽園ファウルグラウンドに腹ばいで見た思い出

スポーツ報知
1974年11月2日、後楽園球場で行われた日米本塁打競争で観客を魅了したハンク・アーロン

 米大リーグ歴代2位の通算755本塁打を放ったハンク・アーロンさんが22日(日本時間23日)、死去した。86歳だった。死因は非公表。アーロンさんが持っていた当時の本塁打世界記録を1977年に更新し、親交が深かったソフトバンクの王貞治球団会長(80)は球団を通じて「全てにおいてすごかった。メジャーリーグの選手のかがみだった」とコメントを発表した。

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 ニューヨーク・メッツが来日した1974年の日米野球。もう一つの目玉イベントが、11月2日の全日本戦(後楽園球場)の試合前に行われた、アーロン(ブレーブス)と王貞治の本塁打競争だった。

 内勤仕事の記録部にいた私は入社2年目。部長から「将来の原稿の肥やしになる。現場に行っていいぞ」と言われ、足を運んだ。三塁側のメッツベンチで片言の英語で若手ナインを取材。彼らに「どこで見るんだ」と聞くと、天然芝だった三塁ベンチ前のファウルグラウンドを指さした。携帯電話もデジカメもない時代。世紀の対決を8ミリで撮影する選手もおり、私は一緒になって腹ばいで見守った。

 アーロンはこの時点で733本塁打。王は2年連続3冠王で634本まで伸ばしていた。ルールはフェアの打球計20回(5回ずつで交代)で何本打つか。このイベントが決まってから眠れない夜を過ごしていたという王は、アルコールを断って臨んだ。「ファウルは打ち直し。全て引っ張りだ」と、シーズン中と違い爪先にかけた重心をかかとに移した。40歳のアーロンはバットを持たずに来日し、シーズン中使っている35インチ(87・5センチ)、34オンス(963・6グラム)とほぼ同じだった、メッツのエド・クレインプールのバットを借り、「ホームランの確率の高い左翼ポール際を狙った」。

 第1ラウンド(R)はアーロン2本、王3本。第2Rは4本対3本の計6本で並んだ。アーロンが9本対7本とリードで迎えた最終R。王は1本目、2本目ともに右翼ポール付近に叩き込み、佐藤清次線審は大きく手を回した。ところがアーロンが抗議すると、メジャー15年目のクリス・ペレコーダス球審は「ファウル」の判定に。結局アーロンが10本目を放ち、2スイングを残して10本対9本で勝利。アーロンは王に駆け寄って抱き合うと、メッツ・ナインも駆け寄ってきた。

 この模様は日本テレビ系列で録画中継ながら27・8%の高視聴率(関東地区)をマーク。王は「膝が震えるほどの緊張感だった。軽いスイングであれだけの距離がでる。昨日(来日)の今日でこの猛烈さ」と脱帽し、アーロンも「あの小さな体(アーロン183センチ、82キロ、王177センチ、79キロ)でタイミングの取り方が素晴らしい。自分の若い時を思い出したよ」と、たたえた。米国のCBSテレビが企画したイベントで、出演料はアーロンが5万ドル(当時のレートで約1500万円)、王が2万ドル(約600万円)だったという。(敬称略)

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